まとめてポン!2003年11月編
女はみんな生きている
グッバイ、レーニン!
再見 ツァイツェン〜また逢う日まで
フォーン・ブース
ほえる犬は噛まない
ポロック
マグダレンの祈り
女はみんな生きている
「大変なこともあるけれど、元気です」
どうもあたしは皮肉の効いたフレンチ・コメディと相性がいいみたいで、この作品もそのご多分に漏れず、完全にあたしのツボ。なんとも痛快で、後味スッキリ爽快感すら漂うサスペンス・コメディに仕上がっている。
物語はひょんなことから関わり合いをもつことになった平凡な主婦エレーヌと売春組織を抜け出そうとする娼婦ノエミがタッグを組んで、いうなれば、世の男たちへ反旗を翻し、前へと進んでいくというもの。この展開というのがテンポがよくて先が読めない上に、スリリングでコミカルなものだから、飽きることなくグイグイと引き込まれていく。まずはこの脚本の妙を賞賛したい。
そして、この物語の柱を成すエレーヌとノエミのふたりのキャラクターが秀逸。今までは家事をして仕事をして、夫と息子に振り回される、変わり映えのしない毎日を送っていたエレーヌだけど、ノエミと出会ったことにより、最初は彼女を見捨てたことによる贖罪の気持ちからなんだろうけど、徐々にその内面で何かが弾けたかのように、生き生きと、行動的な女性に変化していく。自分でも気付かなかった新たな自分を再発見したとでもいおうか(ノエミの入院する病院を訪ねてきた組織の男を後ろから一撃!、なんてシーンには思わずクスリ。で、しっかりシートで隠しておくところにまたまたクスリ)。一方のノエミ。男たちにボコボコにされて一時は意識不明の重体に陥るけど、エレーヌの懇親的な介護の甲斐あって回復してから走り回って大活躍。決してあたしの好みのタイプの女性というわけではないけれど、それでも数々の大富豪と同様、彼女にあんなふうに迫られたら、やっぱ骨抜きにされちゃうのかも(笑・男ってバカやね〜)。また、物語が進むにつれ、彼女の背負ってきた壮絶な過去も明らかにされ、この作品は単なるサスペンス・コメディではなく、麻薬、売春、家庭問題、政略結婚という名の人身売買などなどの社会問題も包含しているということに気付かされる。
このふたりに加えてノエミの妹ゾラとエレーヌの義母。今までずっとノエミのことを恨みつつも、ノエミの真意を理解し、自らの手で自分の未来を掴んでいこうと決断するゾラ、実の息子に邪険にされながらも(かなり胸が痛む)、奔走するエレーヌとノエミをさり気なくサポートする義母。
こういった女性たちの活躍を目の当たりにすると、やっぱり女は強い、との感を強くし、そしてその強さと行動力に喝采を送りたくなる。ラストの海辺の家のベンチで4人が並んで座るシーンが非常に印象的だ。
その一方で、どうしようもない男たち。エレーヌの夫のポールなんて、目の前でノエミがボコボコにされているというのに関わり合いになるのを避けて車のドアをロックしてさっさと血の付いた車を洗車に走らせるし、エレーヌのことを家政婦代わりにしか思っていないくせに彼女がいないとなんにもできないし(彼女が不在の間にキッチンに雑然と積まれた食器がなんともね…。つうか、アイロンがけくらい自分でしなさいよ)、自分の母親をあんなにも邪険に扱うし(それだけに、ラスト近くのあのシーンはなんとも痛快)、仕事が大事で女には目もくれないとかなんとか言っときながら、自分が見捨てた女だということにも気付かずにノエミの手練手管にメロメロにされている姿は滑稽だし(その分、ノエミに自分の正体を告げられたときのマヌケ面といったら)。エレーヌの息子のファブリスも似たり寄ったり。エレーヌの作ってくれる料理にはブーたれるし、二股をかけているガールフレンドがふたりとも自分にご執心(古いか?)なのをいいことに好き勝手やってるし(でも、それに気付いたガールフレンドからしっかり反撃されてるのが可笑しい)、それでもってノエミに"落とされ"るところはポールと一緒。他にも将来のことなんてまったく考えずに、今が楽しければそれでよし、ちょっと豪華なプレゼントを貰ったくらいでノエミを許しちゃう単細胞のノエミの弟たちや、女を金儲けのための物、道具としか考えない組織の連中やノエミの父親。で、そんな彼らの姿は全然クールじゃないし、しかも彼らはそんな自分たちのダメさに全然気付いていないというのが可笑しくも哀しい。
男の立場からすると、ここまで男たちの身勝手さとダメさぶり、そしてその自分のダメさに気付かない彼らの姿が浮き彫りにされると、結構複雑な気分というか、かなり痛い(笑)。でも、やっぱり男って女がいないと何にもできないダメ人間なんだよね、きっと。
グッバイ、レーニン!
「時代が変わっても、心は変わらない。」
今年(2003年)の東京国際映画祭の特別招待作品として一足お先に鑑賞したのだけど、この作品が上映された11月9日から遡ること14年前、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊したとのことで、そのめぐり合わせとあれからもうそんなに時間が経過しているという事実になにやら感慨深さを覚えたりして。ベルリンの壁を描いた作品として真っ先に思い浮かぶのは傑作スペクタクル映画「トンネル」 であるが、この「グッバイ、レーニン!」 も、旧東ドイツを舞台として、時代の変化の波に翻弄される家族の姿を、コミカルな中にもジワリとくる余韻を残す、非常に優れた作品に仕上がっているといっていいだろう。しかも、"西側"ではなく、"西側"の文化が流れ込んでいった"東側"から描いたことで面白い作品に仕上がったのだと思う。
ベルリンの壁崩壊直前に改革を求めるデモ行進に参加した息子アレックスの姿を目撃した愛国主義者の母クリスティアーネは心臓発作で倒れ、彼女が昏睡状態でいる間に壁が崩壊し、彼女が目覚めたときには社会は一変、しかし、目覚めた彼女に今度ショックを与えたら、命の保障はないと医師に宣告されたアレックスが、世の中は何も変わっていない風を装い、社会の変化や壁の崩壊すら隠そうと奮闘する姿が可笑しくも哀しい。
特にツボだったのは、アレックスが衛星アンテナ販売会社のビデオマニアの同僚に頼み込んで、クリスティアーネのために"偽東ドイツニュース"を作って彼女に見せるくだり。あと、退院後アパートの窓から見えそうになるコカコーラの垂れ幕(これも、コカコーラは東ドイツで発明されたなんていう"偽ニュース"で誤魔化してみたり)や、クリスティアーネがベッドを抜け出して街に出てしまったときに目にするヘリコプターに吊り下げられて運ばれるレーニンの胸像など。
だけど、アレックス自身も自覚していたようだけど、こうやってクリスティアーネに見せている"偽東ドイツ"の現状って、実はアレックス自身が思い浮かべる理想の東ドイツの姿。そう、彼は母親のためという大義名分の下、自らが望む"あるべき"東ドイツを作り出したかったんじゃないのかな。そして、彼自身がベルリンの壁崩壊、そしてその後の急激な社会の変化を受け入れたくなかったんじゃないのか、そんなことに途中から思い至り、そんな彼の気持ちを推し量るに、なんともいえない切ない気持ちがしてきた。
また、クリスティアーネがこのアレックスの行為に気付いたのかどうか、作品中では明示されないのだが(もっとも、アレックスのガールフレンドで看護婦のララと彼女との会話で示唆されたと言えなくもないのだが、このシーンは不要だったように思う)、アレックスのヒーローの元宇宙飛行士まで担ぎ出して東ドイツ新体制の"偽ニュース"を流した後にクリスティアーネがアレックスに言う「すばらしいわ。」という言葉には、東ドイツの新体制に向けてというよりも、自分のために、良くぞここまでやってくれたわね、という、息子に対する彼女なりの感謝の気持ちが込められていたと思えるのだが。つまり、クリスティアーネは社会の変化に薄々に気付いていて、だけど息子のために最期まで騙され続けていようと決めていたんじゃないかな。彼のおかげで"西側"に渡ったまま消息不明だった夫とも再会できたわけだし。そんな母親が息子のことを想う気持ちと、息子が母親を想う気持ちに思わずウルウルきてしまった。
それと、作品中に流れる音楽が妙に心の琴線に触れると思ったら、スコアを手掛けているのが「アメリ」 のスコアを手掛けたヤン・ティルセンだった。こちらにも注目かと。
再見 ツァイツェン〜また逢う日まで
「私たち兄弟姉妹は、天から舞う雪のよう。最初はバラバラだけど、地上で溶けて、氷になり、やがて水となって・・・そして永遠に離れない。」
中国全土で大ヒットとなったというこの作品、両親に不慮の死によって離れ離れになった4人の兄弟姉妹が、20年ぶりに再会をはたすという、この手の作品が好きな人にとってはたまらない作品だろう。
物語は若き女性指揮者スーティエンが、20年ぶりに祖国・中国に帰国するところから始まる。中国交響楽団との共演だけでなく、彼女のもうひとつの目的、離れ離れになった3人の兄弟妹と再会すること。ここから彼女の兄弟妹の消息を尋ねる過程、そして彼らの今という現在の描写と、何故4人が離れ離れにならなければならなかったのかという、彼らの子供時代の過去の描写とが交互に描かれて行く。
音楽教師の父、病弱だけど優しい母、貧しいけれど幸せな子供時代の日々。それと対象的な3人の決して恵まれているとはいえない現在の状況。ようやくひとり、またひとりと再会を果たしていくが、スーティエンと兄イクーとはすれ違い、なかなか再会を果たせない。両親の不慮の事故死で養子に出され、ひとり、またひとりと離れ離れになる彼ら。そして、スーティエンの中国交響楽団とのコンサート当日に迎えるクライマックスと、現在と過去を交互に描くことによって徐々にドラマティックに盛り上げていき、涙なしには観られない作品となるんだろうけど、あたしの場合、どうもこの展開が大仰過ぎるというか、いかにも「泣かせてやる〜。」というあざとさが鼻についてしまい、心に響くというよりも、逆に冷めてしまった部分がある。いつもだったら大泣きする泣き虫クンなのにね(苦笑)。
そりゃイクーとミャオがミャオの部屋で再会するシーンや、両親の死後、ティエンとミャオをなんとか引き取ってもらって、最後にスーティエンを引き取ってもらおうとイクーが泣きながら土下座をして、無事に引き取ってもらえることになった後にイクーが泣きながら駆け出して行くシーンなどには胸引き裂かれる思いがして思わずウルウルきてしまったけど、それにしたって涙ポロリとまではいかなかったし。ラストもあれはやり過ぎでしょ、とかなり退いた(笑)。
う〜ん、あたしの場合はドラマティックに泣かせにかかる作品よりも、淡々とした描写の中で徐々に心に染み入る作品で泣く傾向にあるのかも。もっとも、「ラスト・プレゼント」 や「星願 あなたにもういちど」 のように、あざといけど大泣きという例もあるから、やはりツボにハマらないといかんということか。でも、どうせならスッキリと泣かせて欲しかったぞ。どうでもいいけど、お父さん役のツイ・ジェンは、ありゃ古田新太だな(笑)。
フォーン・ブース
「電話を切れば、殺される」
皆さんご存知のとおり(笑)、あたしはあんまりメジャー系作品は観ないのだけど、この作品に関しては、予告編を観てその設定に心惹かれるものがあり、しかもアメリカでの無差別連続狙撃事件の影響で公開が延び延びになってしまったといういわくありげな作品だという点にも下世話な興味を抱いていたということもあり、迷わず公開初日の初回に足を運んだ。
プロットは至ってシンプル。電話ボックスにかかってきた電話を取った自称一流パブリシストのスチュが、その電話の相手から「電話を切ったら殺す。」と脅され、にっちもさっちも行かない状況に追い込まれるというもの。オープニングを除いて、ほぼ電話ボックスの中とその周囲だけで展開する、舞台劇にするのもありかと思えるシチュエーション・サスペンス。81分という短時間で観ているこちらもスチュと同じような感覚を味わえる、最後まで緊張感の持続するとても優れた脚本だ。
コリン・ファレル演じるスチュは、あくまでも自称一流パブリシストということで、口八丁でこの業界を生きている。そんな虚飾と見栄に塗れた彼が、姿の見えない狙撃犯から狙われ、自らの罪を告白しろと迫られる。狙撃犯はもとからスチュに狙いを定めていたのは明白で、スチュのことをよく知っている。そして狙撃犯の姿も見えず、正体もその狙いも分からず、まったくのアドバンテージはない状況。なんとも不条理で理不尽な"ゲーム"。電話ボックスを明渡せと迫ってきたポン引きを狙撃犯が射殺したことで集まる群衆と警察。狙撃の疑いをかけられ、挙句の果てに妻ケリーと浮気心を抱いていたパメラまでもが現場に駆けつけ、状況は悪くなるばかり。どんどん袋小路に追い込まれるスチュの心理と、はたして彼はどのようにしてこの窮地から脱するのか、はたまた脱することはできないのか、ハラハラドキドキ。それと同時に元々が軽薄な人生を送ってきたスチュの虚飾の鎧が剥がされていく過程、なんとか窮地を脱しようともがき続けるその姿、それと同時に死に直面した絶望的な恐怖感、コリン・ファレルがその機微を絶妙に演じている。
また、この現場を仕切るレイミー警部を演じるフォレスト・ウィテカーの、考えを巡りに巡らせて、事件を解決に持っていこうと奮闘する姿もいいアクセントになっている。
ま、ラストの夫婦の絆を確認し合うラストはいかにもという感じだが(苦笑)、それでも(ネタバレ)→結局は狙撃犯の正体もその真の狙いも明らかにされないエンディングにはありがちとはいえ背筋がゾクリ。彼(キーファー・サザーランド→聞くところによると、そもそも、撮影当初はこの犯人役、キーファーではなく、ロン・エルダードが演じていたものを、試写の後、急遽差し替えたとか。いわば吹き替えでここまでの有無を言わせぬ迫力を出すキーファー、これまた凄い)は、またスチュを狙うのか、それともまた他の人間を・・・。←(ここまで)不条理で理不尽な無差別襲撃事件もここに極まれりといったところか。
ほえる犬は噛まない
「絶対、あたしが助けてあげる」
あたしが韓国映画に対して抱くイメージというのがあって、それがどういうものかということはここでは置いておくにしても(ズルイ)、この作品は、そういった今まであたしが韓国映画に対して抱いていたイメージを見事なまでに覆す、なんともシュールで、なんともポップで、そしてなんともユニークな作品だ。
閑静なマンションで起こる小犬失踪事件、それをきっかけにして入り乱れるなんともユニークな人々。そもそものきっかけは小犬の鳴き声に悩まされ、小犬の誘拐と殺害を企てる大学のうだつの上がらない非常勤講師ユンジュ。教授になるための賄賂の工面に頭を悩ます場面は、今でも賄賂が横行しているという韓国社会を皮肉ったりして。そこに登場するのが純粋で、正義感が強くて、元気だけが取り柄の、思い込んだら一直線、だけどその元気さが空回りするマンションの管理事務所勤務のヒョンナム。決してあたしのタイプの女の子ではないけれど、緊張すると黄色いパーカーのフードをキュ〜ッと被ってしまうその仕草が可愛らしい。
このふたりを軸として、小犬失踪事件を解決しようと奔走するヒョンナムをサポートする、ヒョンナムの親友チャンミ、2匹目の小犬の飼い主ツバ吐きばあさん(あたしは切干大根大好きなだけに、切干大根と遺言状ネタがツボ)、なんとも胡散臭い(つうか、お前が犬食ってんのかよ、みたいな)ピョン警備員に、これまた得体の知れないホームレス、ユンジュに代わって家計を支えているユンジュの妻ウンシルなどが、どのように交差するのか、それを観ているだけでもある意味楽しい。それと、地下鉄ネタ(かなりブラック!)やトイレット・ペーパー・ネタなどの小ネタもいいアクセントになっていて、飽きさせない。
ただ、物語が進むにつれ、ユンジュが心に抱えるもの、ウンシルの心の内などが見えてきて、些か切ない気持ちにもなる。それと、ヒョンナムと出会ったことで自らを省み、自身の犯したことについて遠まわしに告白するユンジュなのだけど、それにも気付かないヒョンナムの鈍感さというか、天然ぶりというか、はたして純粋すぎるということは幸せなことなのか、世の中には知らない方が幸せなこともあるのか、などと、グルグル袋地小路に入ってしまったかのように考え込んでしまう自分がいる。
賄賂を送った結果教授になったものの、心にポッカリと穴が開いたかのようなユンジュとなんとも晴れやかな表情のヒョンナム、どちらの人生がいいとか悪いとか言うつもりはないけれど、ラストのこのコントラストがまた皮肉だ。こういった余韻を残す作品も珍しい。韓国映画はまだまだ奥が深い。それにしても、何故に"フランダースの犬"なのか?(謎)
ポロック
「こんな僕に心をくれた女(ひと)―。僕はあなたに永遠をあげる―。」
「フリーダ」 のときと同様、あたしはこれまた寡聞にしてジャクソン・ポロックというアーティストのことを知らなかった(汗)。だけど、エド・ハリスが自らメガホンをとり、あたかも彼の映画人生を捧げるかのような形で打ち込んだ作品だという話を聞いて非常に興味をそそられ、彼のドリッピング・ポーリングという技法も知らないまま、劇場に足を運んだ(ちなみに、あたしが鑑賞したシャンテ・シネのロビーには、このドリッピング・ポーリングの技法による美大生の作品が展示されていた)。
いやはや、恐れ入った。「フリーダ」 におけるサルマ・ハエックの情熱と同様、この作品にもエド・ハリスのこの作品に賭ける情熱(「フリーダ」 が"動"ならこちらは"静"なる情熱とでも言おうか)がひしひしと感じられる力作だ。
チラシや予告編ではこのポロックと、彼の妻であり、彼の最大の理解者であるリーとのラブ・ストーリーという側面が前面に押し出されていたようにも思えるが、あたしには、この作品は、それ以上にジャクソン・ポロックという、アーティスティックな感性を持つひとりの人間の鮮烈な生き様を描いた作品に思えてならない。
天才肌の人間にありがちなエキセントリックさ、危うさ、だけどその内面には限りない優しさ、弱さ、脆さ、繊細さを併せ持ち、だけど、自分でもその感情のコントロールができずにアルコールに溺れる彼、そんな彼の姿を目の当たりにし、あたしの脳裏には、やはりその才能を持て余し、アルコールとドラッグに溺れ、早世してしまった数々の一流ミュージシャンの姿が浮かんでは消える。ポロックの人生と、そうしたミュージシャンたちの人生が重なって見える。やはり、"天才"にとってはこの世の中は生き難い世界なのだろうか。だけど、彼にはリーという存在がひとつの救いになっている。リーを演じるマーシャ・ゲイ・ハーデンが、アカデミー受賞に相応しい堅実な演技を観せている。
そして、一にも二にもエド・ハリス。今まで彼の出演作品を何本か観て、いぶし銀のような存在感を持った役者だと思っていたのだが、この作品では、まさに乾坤一擲、確かにポロックのことをまったく知らないあたしではあるけど、それでも、あたかもポロックとエド・ハリスとが同化してしまったかのような錯覚を覚えるほど、その"天才"(この言い方が妥当かどうかは別にして)であるが故の苦悩、弱さ、揺れる感情の波、脆さ、エキセントリックさなどが、こちらを完全に圧倒するかのように伝わり、狂おしいまでに凄まじい存在感を放っている。それ故、いわば偶然の産物であるかのようなドリッピング・ポーリングの誕生も、偶然ではなく、必然、この瞬間、何かが降りてきた、そんな神がかり的な思いすらしてしまう。
その俳優のことを語る上で欠かせない作品というのが存在すると思うのだけど、この作品におけるエド・ハリスの演技を観てしまうと、この作品はまさにそれ。"エド・ハリスを堪能するにはこの一本"
、そんな気がしてならない。
マグダレンの祈り
「前を見続ける、何があっても。」
2002年のヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞したこの作品、自身もカトリック家庭で育ったという、監督を務めたピーター・ミュランがこのような作品を撮ったという勇気は賞賛に値するのではないだろうか。
それだけ、この作品にはカトリック教会の隠された暗部が描かれていると言っても過言ではない。キリスト教的考え方には馴染みの薄いあたしのような日本人にとっては、この作品が実話に基づいたもの、そしてマグダレン修道院が20世紀末(1996年)まで実在したというその事実に唖然とする他はない。そして、そのカトリックを信仰しているアイルランドの人々に与えた衝撃は想像に難くない。
舞台は1964年(!)、周りの少年たちを"惑わす"という理由だけで修道院に送られる孤児バーナデット、いとこにレイプされたマーガレット、赤ん坊と引き離された未婚の母ローズ。彼女たちの行為はすべて汚れたもの、性的に"堕落した"ものとみなされ、その汚れた"魂の浄化のため"という大義名分の下、カトリック修道院で労働力として酷使される。しかし、その修道院のシスターは金の亡者。彼女たちの人権など省みない(女性が女性の人権を踏み躙る、何とも救いようのない事態。だけど、シスターにはそんな意識はないのだろう。だって、これが彼女たちの為などとぬかしやがるのだから)。修道院での生活は過酷そのもの。朝から晩まで働かされ、大部屋に押し込まれ、質素な食事(衝立の向こうではシスターたちが豪勢な食事を取っているという図式がなんとも)。そして厳格な規律とそれに反した後に待っているのは激しい折檻。いつしか人間性を失い、諦めの境地でただ日々を過ごすだけという状況に陥っても不思議ではない。だけど、彼女たち3人は諦めない。希望を持って生きるというよりも、ひたすら前を見据え、こんなところで終わりたくない、何が何でも外へ出る、そして生き抜いてやるという強い意志。そんな彼女たちの姿に非常に力強さを覚える。その力強さゆえ、非常に重いテーマであるにもかかわらず、観終わって暗澹たる気持ちになるというよりも、幾許かの爽快な気持ちが残った。