まとめてポン!2003年12月編
アイデン&ティティ
ヴァイブレータ
エヴァとステファンとすてきな家族
クエンティン★タランティーノの宇宙
片腕カンフーVS空とぶギロチン
黒蜥蜴
子連れ狼 三途の川の乳母車
幸福の鐘
コール
デブラ・ウィンガーを探して
10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス
ブラウン・バニー
フル・フロンタル
マトリックス レボリューションズ
息子のまなざし
アイデン&ティティ
「やらなきゃならないことをやるだけさ。だからうまくいくんだよ。」
「現在の日本のメジャー音楽シーンには、ロックが成功する土壌があるのか?」この命題についてはどうしても"No"と答えざるを得ない。何故なら、今の日本のメジャー音楽シーンは、完全に"芸能界"化してしまっており、音楽は単なる使い捨てのファッションに成り下がり、自分たちがやりたいことよりも売れるものが良しとされる風潮、聴き手の側も、決して後世には残らない、毒にも薬にもならない最大公約数的なものを聴いて喜んでいる。そんなものは"ロック"なんかじゃない。そうしたものと"ロック"は相容れないものだと考えるから。とすると、日本のロックが生き残る道は、インディーズしかないのだろうか?
この作品は、そうした音楽業界の光と影の部分を描きつつも、"ロック"というのは単なる"ファッション"でも、演っている表面的な"音"だけでもない(それっぽい音を出していても、全然ロックが感じられない音楽は幾らでもある。その逆もまた然り)、まさにその人の"生き方"、"生き様"なのだということを実感させられる(これは大沢在昌の「雪蛍」 で、佐久間公がいみじくも言う「探偵は職業ではない。生き方だ。」という言葉に相通ずるものがあるだろう)、"ロック"を好きな人間にとっては共感できること請け合いの、可笑しくも哀しく、なんともほろ苦く、そして切なくも甘酸っぱい、それでいて間違いなく"ロック"している青春映画なのだ。
主人公の中島率いるSPEED WAY は、"バンド・ブーム"の勢いに乗ってメジャー・デビュー。しかし、ブームも去り、そこから芸能界的な業界の体質と、自分たちのやりたいこととの葛藤に悩まされ続けることになる。そんな中島自身の葛藤、挫折感、焦燥感、不安感、メンバー間の衝突、中島のことを支え続けてくれる彼女との恋愛模様、同じバンド・ブームに乗ってメジャー・デビュー、一世を風靡しながらもブームが去った後に器用にも方向転換してみせるバンド、今じゃ社会人として器用に立ち回っている大学時代の友人たち。どれもがリアルで共感できるもの。また、中島の前に突如として現れた、中島にしか見えないブルース・ハープでコミュニケーションを取る、中島が"ディラン"と呼ぶ男。彼の与える啓示、これがまたいいアクセントになっている。そして、中島が最後に出した結論と、「大人たちを困らせてやろうぜ。」というセリフも痛快。これもまた"ロック"だよね。
また、メジャー・デビューしてもバイトは続けなきゃなんないとか、住んでるところは未だに4畳半一間のアパートだとか、追っかけのオネェちゃんと駐車場でやっちゃいましたとか、ライヴで唯一のヒット曲を演らないことにブーたれるファン(つうか、バンドの方向性を理解しない、そういう輩を"ファン"とは呼びたくないけど)といった設定も「あるある。」と思わせられるし、岸辺四郎が、昔ミュージシャンだった事務所の社長役というキャスティングにはやっぱりニヤリとさせられるし、BOBAのミック・ジャガー"もどき"にも「オイオイ。」と思わず笑ってツッコミを入れたくなるし、そういった小ネタも十分効いている。それと同時にSPEED WAY のメンバー4人の等身大の姿も、「こういったバンドって絶対いるよね。」と思わず見入ってしまう。原作のみうらじゅん(彼のバンド、大島渚 もチョコッと出てましたね)&田口トモロヲ監督(ブロンソンズ だ)&脚本の宮藤官九郎のコンビの勝利だね。そして、バンドの演奏シーン共々、ご機嫌な音楽たち。絶対にサントラが欲しくなるよ。
ヴァイブレータ
「あたし、あなたにさわりたい。」
2003年東京国際映画祭コンペティション部門で、主演の寺島しのぶが優秀女優賞を獲得、彼女が主演した「赤目四十八瀧心中未遂」 も未見ながら、非常に評価の高い作品らしく、今が"旬"の女優を見逃す手はないということで、劇場まで足を運ぶ。
物語は、いつからか自分の頭の中で聞こえるようになった"声"の存在に悩まされ、過食、嘔吐を続け、そしてアルコールに依存するようになったフリーのルポライター、怜が、コンビニで出会ったトラック運転手、希寿のトラックに同乗し、いわば行きずりの旅を続ける72時間を、怜の感情の揺れを中心にして、多くのシーンをトラックの中という限定された空間の中で描く、なんとも不思議で、それでいて、深い余韻が残るロードムービーだ。
オープニングのコンビニで怜と希寿がすれ違う際の怜の胸の中のケータイの"ヴァイブレータ"が作動するシーンは「アメリ」 を思い起こして思わずニヤリ。そして、怜の感情をセリフで表現するのではなく、スクリーン上に文字でシンプルに表現する手法(「行きたい、行きたい。」とか「あれ(希寿のことね)、食べたい。」とか)、そしてそれに彼女の頭の中の"声"を絡ませて表現する手法がまた上手い。
ストーリーは、特別なことが起きるわけでもなく、淡々と進んでいく。だけど、希寿と触れ合う(心も身体も)中でほんの少しだけど、怜の内側の何かが変化していく、その様がなんともいえない。物語のクライマックスである、一度は聞こえなくなっていた"声"が、急に聞こえるようになったときの怜のパニックに陥る様、怜の心の奥深いところにある寂しさ、孤独感を感じるラブホテルでの怜と希寿の入浴シーン(嫌らしさなど、微塵も感じない)などが絶妙だ。そして、72時間という、短い"行きずり"の旅を終え、何事もなかったかのように別れていくふたり。最後の「ただあたしは自分が、いいものになった気がした。」という、彼女の心情を見事に一言で言い表しているこの言葉が胸に染みる。
また、怜を演じる寺島しのぶの、心の内に抱える不安定さ、孤独感、自分のすべてを否定するかのようなどうしようもなく刹那的な感情表現などが絶品で、この彼女の凄味を堪能するだけでも観る価値のある作品ではなかろうか。
エヴァとステファンとすてきな家族
「みんなといるから、しあわせがある」
時代は1970年代のスウェーデン。夫と喧嘩して子どもを連れて家を飛び出した母が飛び込んだのは、自身の弟が生活するコミューン。そこで暮らす、あたかも外部とのコミュニケーションを断つかのような人々のキャラクター、そして生活様式が何ともユニーク。肉は食べない、テレビはない、クリスマスにプレゼントもない。オマケにいきなり男性の○○や女性の○○まで出てきちゃうし。当然ボカシがかかっているのだけど、さすがはR-15指定(笑)。
そんな生活に放り込まれた子供たちはどうするか。他の作品では適応能力の高さを発揮してすぐにその環境に溶け込んでしまう子どもたちの姿が描かれることが多いのだけど、エヴァとステファンは今までに見たこともない人々に戸惑い、すぐには順応することはない。だけど、コミューンの人々と触れ合い、徐々に彼らのことを理解するに連れ、エヴァとステファンの内面に変化が訪れる。それは彼らの母親にしても同じ。それと同時に、子どもたちに触発されるかのように、コミューンの人々にも徐々に変化が現れる。この辺りの描き方が絶妙というか、非常に興味深い。
やはり、人間というのは、自分の殻に閉じこもるだけではなく、人と触れ合うことで、他者から影響を与えられ、そして影響を与えながら生きていくというのが理想的な姿なのかも知れない。モチロン、その過程では、自身と異なるものに対する受容、そして自我を押し通すだけではなく、時には引くことを覚えることも必要になるのは言うまでもない。同じような価値観の人間とだけ付き合っていれば、そりゃストレスは溜まらないし、ある意味楽だとは思う。だけど、それでは真の意味での成長なんてものとは無縁だろうしね。こうやって、異なる価値観、異なる年代の人々と刺激し合って生きていければ、きっと今よりも楽しい世界が待っているかも。
などと、妙にシリアスぶってみたけど、この作品ではそういうことがシリアスに描かれるのではなく、時には可笑しく、時にはしみじみほのぼのとした描写の中に伝わってくるとでも言えばいいのだろうか。ラストの夫婦の和解と共に描かれる、みんなでサッカーボールを蹴るシーンがとても心に残る。この辺はとてもヨーロッパ的だな。そして、「やかまし村の子どもたち」 や「長靴下のピッピ」 などが会話に上る辺りがとても北欧的だ。また、サントラもなかなかイカしているが、個人的にはABBA の"S.O.S."よりも、NAZARETH の"Love Hurts"だね。
クエンティン★タランティーノの宇宙
「KILL BILL Vol.1」 公開記念ということで、タランティーノが影響を受けた映画、そして「KILL BILL」 の元ネタとなったと言われている作品を一挙上映するという、なんともマニアックな企画が催された。その中で、これだけはぜひとも観ておきたかった、という作品について、簡単なレビューを。
片腕カンフーvs空飛ぶギロチン
これはシリーズの続編らしく、前作で片腕ドラゴンに弟子を殺された封神が、帽子の外側と内側に鋭利な刃物を仕込んだ"空とぶギロチン"を片手に、ドラゴンへの復讐の炎を燃やすというもの。当然この"空とぶギロチン"は、GOGO夕張が操る"GOGOボール"の元ネタとなったもの。この復讐譚に、あたかも天下一武道会のような武道大会における、ムエタイや腕がグイ〜ンと伸びる武術使いなどの、ユニークというにはあまりにもおバカなキャラクターたちなども絡ませて、とにかくチープでおバカなんだけど飽きさせない展開が絶妙。それと、タランティーノのセンスということでいえば、この作品で封神のテーマに使われている曲("Super 16" by NEU!)を、しっかりGOGO夕張が"GOGOボール"を投げるシーンで使っているということ。この辺の芸の細かさにも大笑い。「KILL BILL」 と同じで小難しい理屈はこねないで、本能で楽しむのが一番。来年2月には待望のDVD化がされるようなので、是非その目でお確かめを。
黒蜥蜴
そうか〜、この作品は深作欣二監督作品だったのね。だからタランティーノが観ていたとしても全然不思議ではない。緑川夫人を演じる丸山(美輪)明弘の妖艶な感じがグー(死語)。それと、故木村功の明智小五郎ね。お約束の変装シーンはあるし、黒蜥蜴を追いながら、いつしか彼女に対する恋愛感情のようなものが芽生えたりして。犯人ともども犯罪の美学も愛する明智といったところか。もともと江戸川乱歩好きだし、楽しめたな、うん。それと同時に、どうして警察でもない明知が拳銃携帯してるんだ?とか、スクリーンにでっかく"O"、"S"、"A"、"K"、"A"と表示されて最後に大阪城の映像と共に"OSAKA"だとか、同じく"T"、"O"、"K"、"Y"、"O"、そして東京タワーと共に"TOKYO"なんてババ〜ンと表示されて舞台設定を説明する手法なんて今の時代からするとバカバカしいけど笑っちゃうし、セリフ回しなんかも妙に時代がかっていて笑えたりと、ツッコミどころも満載。また、元々江戸川乱歩の原作を三島由紀夫が戯曲化して、その映画化ということで、剥製役の三島由紀夫なんかも目にすることが出来て、収穫だったなと。でも、緑川夫人と彼女が従える部下の姿が、東京の夜の世界を支配するオーレン・イシイとクレイジー88のキャラ設定に影響を与えたというのは些か微妙な線かなと。
子連れ狼 三途の川の乳母車
ナルホド、テレビ版と違い、映画版の主演は若山富三郎なのね。若いね〜♪で、作品はというと、チープなんだけど力強さが漲り、シャ〜っと噴き出て飛び散る血飛沫、千切れる手足、首、まっぷたつに裂ける胴体など、この殺陣、そしてここで覚えるカタルシスは、間違いなく青葉屋における殺陣の元ネタだよ。それと同時に、"ちゃん"を想う大五郎の気持ちに切なさを覚えたり(それと同時に拝一刀の素っ気なさの中にも大五郎を想う気持ちが見て取れる)、なぜ"三途の川"なのかということが分かったり。また、火事になった船上から、「大五郎、少しの辛抱だ!」なんて言って海に乳母車ごと放り投げるんじゃないってば、とか、乳母車にあんなに武器を搭載しているなんて、絶対に反則だってば、とか、松尾嘉代がジャンプしながら後退していく姿なんて「ありえね〜!」って感じだとか、これまたツッコミどころも満載(笑)。
そして、小林昭二や岸田森などの、今は亡き往年の名バイプレイヤーたちの活躍する姿をスクリーンで拝むことができたというのも大きな収穫だった。ついでに松尾嘉代の"サービス・カット"もね(謎笑)。
幸福の鐘
「歩いて見つけた、すぐそこにある幸せ。」
SABU監督作品といえば、「MONDAY」 だったり「DRIVE」 だったり、喧しくて(これ誉め言葉ね)、なんか妙なパワーがあって、それでいていいんだか悪いんだか分からないテンポの中で、いつの間にかその世界に入り込まざるを得ないような、不思議な作品というイメージがあるんだけど、この作品については、それらの作品とは完全に一線を画すような、派手さはない、とても静かに淡々と流れていく描写の中で、"幸せ"の意味を考えさせられ、そしてとても温かな気持ちになれる、非常に味わい深い秀作に仕上がっている。
物語は、工場の閉鎖で職を失った工員の五十嵐悟が、どうしたらいいか分からずに、ひたすら歩き続ける途上で、様々な事件に遭遇し、色々な人に出会い、その中で、自身の幸せについて考えていくというもの。
彼が遭遇するのは、土手で臓器提供に申し込んだと得意げに話しながら、悟の目の前でこと切れるヤクザ→ヤクザを殺したと間違えられて留置場へ→留置場で妻を愛するあまり、殺人を犯した板前との出会い→板前の妻への仕返し→火災現場に出くわして、シングルマザーの子供を救出→警察で感謝状授与→車に撥ねられて入院→同室の老人の依頼で彼の妻の様子を見に行ったら妻が宝くじに当たってショックのあまり死亡しているのを発見→その宝くじを換金して彷徨う→シングルマザーに再会し、と思ったら、当選金を持ち逃げされる→川に身を投げるサラリーマンを目撃→場末のバーで癌で余命幾許もないという男との出会い。な〜んていう、なんとも"濃い"出来事。これをたった2日のうちに経験しちゃうというのだから。そんな中で、自身のことについて考え始め、今まで来た道を引き返し、とうとう走り出す。そう、ここまで悟は一言も言葉を発せず(彼と出会う人たちが、すべてを語ってくれる。この構成も上手い)、走ることもなくひたすら歩き続けていたのだ。そしてラストシーン。今まで言葉を発さなかった分、その反動の如く、この一両日で体験した出来事を嬉々として語り続ける悟の姿に、幸せって、何も特別なことではなく、身近な、何気ないささやかな日常の中にあるんだ、ということを実感でき、とてもホッとする。ここまでの持って行き方が非常に上手い。ラストに鳴り響く鐘の音がこれまた印象的。
そして、悟を演じる寺島進、ラストまで一言もセリフを発しない、そしてラストまで決して走ることなく逡巡しながら歩き続けるその姿と、ラストの自分にとっての幸せを見つけたかのような晴れやかな表情と今までの出来事を生き生きと語り続ける口調のコントラストが非常に印象的で、このような形で感情表現をできる彼の芸達者ぶりにあらためて感嘆。非常に素晴らしい!「空の穴」 のときも思ったけど、彼はこれからの日本映画になくてはならない貴重な存在、稀有な映画俳優(そう、二流の"テレビ・タレント"が映画に出るのとは訳が違うのだ)だということを再認識させられた。
コール
「3つの場所 3人の誘拐犯 3人の人質」
グレッグ・アイルズの原作「24時間」を映画化したもので、本来なら映画公開前に原作を読んでおきたかったところだが、結局手を付けられずに公開を迎えてしまった。なので、原作との相違点については今の時点では分からないのだけど、父・母・娘が別々に監禁され、犯人同士による30分ごとの連絡が途絶えれば、娘は殺されるという、完璧と思われる犯人たちの誘拐計画がまずは秀逸。そして、今までに企てた誘拐計画とは異なり、娘アビーが重度の喘息持ちであり、しかも今回は3人がそれぞれ黙って言うことを聞くのではなく、それぞれの場所で抵抗を始めたことによって、犯人たちの計画に微妙な齟齬をきたし、自滅していくというストーリーも、見せ方さえ間違わなければ非常に面白いものになっていたと思う。
それで、だ。確かに物語が展開していくにつれ、実は今回の誘拐計画、犯人たちには今まで実行した営利目的の誘拐とは異なる真の動機が隠されていたということが明らかになるなど、先の展開が読めない部分も多々あって、最後まで飽きずに楽しめたし、アビーを演じるダコタ・ファニングは相変わらず上手いし、誘拐犯のリーダー、ヒッキーを演じるケヴィン・ベーコンの嫌らしい悪役ぶりもお見事。だけど、犯人たちの計画に亀裂が入り、そこからのバタバタぶりを目にしてしまうと、今までの4件で、よくもまあ無事に誘拐計画が成功したものだと、どうも深みが感じられなくて、勝手に自滅してちょーだいと、思ってしまったりして。それと、ラストのカークラッシュ、これも別に必要なかったんじゃないのかなと。この手のサスペンス作品は、こういう派手な仕掛けがなくても十分鑑賞に堪えられる類のものだと思うんですけど。そういう意味では、良くも悪くも"ハリウッド"的だなと。
それから、過去にウィルが北部病院に勤務していたことをヒッキーが知っているということをカレンが知って、ウィルに「アビーが殺される!」とメッセージを送るくだり、ということは、作品中でのウィルの言い分は、真実は違うってこと?どうもこの一点がよく分からない。ということで、これについては原作を読んで確かめることにしたい。でも、この部分、まさか映画オリジナルだなんてことはないよね?
デブラ・ウィンガーを探して
「女優たちの、ここだけの話」
女優ロザンナ・アークエットが、女優業と母親業の両立に悩み、それに対する答を導き出そうと、突如としてスクリーンから姿を消した伝説の女優デブラ・ウィンガーに話を聞こうとする旅の過程で、多くの女優たちと出会い、デブラ・ウィンガーだけでなく、彼女たちから聞いた興味深い話を綴るドキュメンタリーだ。
ここにあるのは、ホントに多くの女優たちの"生"の声。モチロン、男であるあたしには彼女たちの話のすべてを理解すること、共感することは出来ないけど、それでも、彼女たちは"女優"である前に、ひとりの"女性"であるということ。それ故に、"普通"(こういう言い方は語弊があるかもしれないけど)の女性たちが抱える悩みは当然持っているし、それにプラスして、"女優"であるが故の悩み、葛藤など、非常に生々しく、よくもまあ、ここまであからさまな話をしてくれるもんだと、驚嘆(この際、「華やかな女優業という職業に就いているんだから、そういったことくらい我慢しなきゃ。」などという、見当違いも甚だしい意見は、積極的に無視することにする)。そういった話がスクリーンを通して語られるというだけでも、価値のある作品ではなかろうか。
個人的には、フランシス・マクドーマンドやシャーロット・ランプリングの存在感、エマニュアル・ベアールの艶、爆笑させられること請け合いのウーピー・ゴールドバーグの話などが非常に印象深かった。そして、デブラ・ウィンガー。映画ファンを標榜しておきながら、彼女のことについてはよく知らない体たらくなんだけど(恥)、それでも、彼女の中にある、女優として、そして女性としての想いは、何となくだけど受け止めることが出来たような、そんな気がする。ここまでの話をしてくれた、すべての女優たち、そしてこうした意欲的な作品を撮ったロザンナ・アークエットに乾杯!
10ミニッツ・オールダー 人生のメビウス
「生きるとは、この10分を生きること。」
「結婚は10分で決める」 アキ・カウリスマキ
「ライフライン」 ビクトル・エリセ
「失われた一万年」 ヴェルナー・ヘルツォーク
「女優のブレイクタイム」 ジム・ジャームッシュ
「トローナからの12マイル」 ヴィム・ヴェンダース
「ゴアvsブッシュ」 スパイク・リー
「夢幻百花」 チェン・カイコー
有名どころの監督たちが10分という限られた時間の中で挑んだショート・フィルム・コンピレーション。それぞれの監督の色、カラーとモノクロの作品を交互に並べた手法がなかなか興味深い。
素っ気なさ、愛想のなさに思わずニヤリとさせられるカウリスマキ作品、シンプルな生命の"誕生"をテーマにしたエリセ作品、"進化"の是非を問うかのようなヘルツォーク作品、女優がトレーラーで独りになりたいのにそうさせてくれない周囲の気遣いに対する皮肉がふんだんに感じられるジャームッシュ作品、起承転結がハッキリしていて一番分かりやすいヴェンダース作品、徹底的にゴアの側から大統領選挙の内幕を露にする、下世話な興味を満足させるのに十分なドキュメンタリーのリー作品(逆に、ブッシュの側からの、内幕なんかも見てみたい)、東洋的な映像、そして最後に切なさを感じるカイコー作品など、見所はそれなりにある。
ただ、こうしたコンピレーション作品は、作品全体の統一性、起承転結の分かりやすさが大切だという観点に立つと、確かに"時"をテーマにしているとはいえ、個々の作品の色合いがあまりにも異なり、また、分かりにくい作品なども見受けられ、観ているこちらはちょっとツライかも。あたしは巨匠が撮った作品だからといって、無条件に「はは〜。畏れ入りました。」と受け入れる人間ではないので、正直眠気を催した作品もありました。マル。
ブラウン・バニー
「愛にさすらう」
あたしのハートを鷲掴みにした不器用なラヴ・ストーリー、「バッファロー'66」 から5年、ヴィンセント・ギャロ待望の主演・監督最新作は、2003年のカンヌ国際映画祭でも賛否両論、真っ二つに分かれたという。まあ、色々な記事を読む限りでは、ギャロ自身、カンヌでの仕打ちが相当堪えたらしいから、彼の中では"賛"よりも"否"の比重の方が高かったのかも知れない。
彼の主演映画という意味では、前作の「ガーゴイル」 が題材としては興味深いものの、正直期待ハズレ、「なんだかな〜。」って感じだったし、主演ではないけれど、それ以前の「コード」 にしても「GO!GO!LA」 にしてもあたし的には今イチ、ほとんど死体役だった「フューネラル」 は作品自体は良かったけど、彼の見せ場という意味では、あれはクリストファー・ウォーケンとクリス・ペンの映画だったと思うので、「これぞギャロだ〜!」と思える作品とは「バッファロー'66」 以来実は出会っていないというのが実際のところなのかも知れない。というか、ってことは、「バッファロー'66」 だけで「これぞギャロだ〜!」などと、寝言をほざいてるってことじゃん(汗)。でも、それほどあの作品があたしに与えたインパクトが大きかったということ。結果はどうあれ、それ以来ギャロ関連の作品はできるだけ観るようにしているわけだし。
そういった前置きはさておいて、ギャロ演じるプロのバイクレーサー、バドが東海岸でのレースを終え、次のレース地カリフォルニアに向かう旅の過程。バドの視点から綴られる、花の名前をもつ3人の女性との出会い、かつての恋人デイジーの実家に立ち寄り、彼女の母親に語る彼女の思い出話(タイトルの"ブラウン・バニー" は、ここで彼女が飼っていたウサギからきているのか)、アメリカの広大な大地、通り過ぎる町の風景、延々と続くハイウェイ、いずれもドラマチックではなく、淡々と綴られていく。そしてバドというキャラクターに漂うなんともいえない寂寥感。今までのギャロの作品とは一線を画したかのような雰囲気。だけど、これは彼のもうひとつの一面なのではなかろうか。ヴィンセント・ギャロという、完璧主義で、アーティスティックで繊細な感性の持ち主。そんな彼の手になる作品。それでも、この淡々とした描写が、ギャロのことを理解していない人間にとっては一歩間違えれば退屈となりかねない諸刃の剣。そういう意味では、極論してしまえば、この作品はギャロ自身、そして彼のファンのためだけの作品、そんな言い方もできるのではなかろうか。
そして、ラストでの恋人デイジーとの再会。ここで彼が心に抱えていた傷、痛み、彼に漂っていた寂寥感の正体が明らかになる。すなわち(ネタバレ)→喪失の痛み。心の奥底に眠る、デイジーを見捨てて死なせてしまったというどうしようもない罪の意識。だけど、それでも彼女の死を受け入れることをできずに痂を作るかのようにその思いを封印する。だけど痂が剥がされ、血が噴き出すかのように一気に吐露される彼の弱さ。←(ここまで)今までの淡々とさすらいながら流れる描写は、すべてはここに到達するための助走に過ぎない。なんとも哀しい真実(物語の途中に挿入されるデイジーとのキスシーンは、この真実への伏線なのか)。全体的に抑制の効いた描写であった分、逆にその真実が心に澱のように沈んでいく。ラストシーンの彼の横顔は、何を思うのだろうか・・・。
ちなみに、カンヌで問題にされたらしいギャロとクロエ・セヴィニーとのSEX描写、これのどこが問題にされるのか、あたしには理解できない。モチロン、「KILL BILL Vol.1」 におけるバイオレンス描写と同様、生理的な問題があるのは分かっているつもりだけど、それでもこれは非常に自然な愛の行為(ボカシがかかっているから過激さがそれで緩和されたとか、そういうことではないと思うし、仮に無修正であっても、そしてセヴィニーが実際にギャロの男性自身を口に含んでいたとしても、そんなことはどうでもいいこと)。間違いなくこの作品には必要なシーンだと思う。
あと、どうでもいいことだけど、スクリーンでお目にかかるのは「トゥリーズ・ラウンジ」 以来となるクロエ嬢、当然のことながら、ずいぶん大きくなったな〜(笑)。
フル・フロンタル
「ロサンゼルス、ハリウッド。裸の心を抱えて誰もが少し誰かとつながっている。」
スティーヴン・ソダーバーグ監督の新作ということで、この人超メジャーっぽい作品を撮ったかと思えば、メジャー感は残るものの根底にあるのはインディーズというような作品を撮ったり、何とも捉えどころのない監督だな〜と思っていたのだけど、この作品は、これまたキャストだけ見ればかなり豪華。ただ、ストーリーを見る限りでは一筋縄ではいかない作品のような印象を抱き、興味津々だったのだけど・・・。
これはかなりインディペンデント感覚溢れる実験的な作品と言っていいだろう。二重三重に積み重ねられた構造の中(劇中劇の劇中劇?)で、登場人物たちの人間模様、人間関係が幾重にも折り重なるように描かれていく。それぞれのストーリーが絡み合い、そして収束していく様は非常にユニークだし、劇中映画「ランデヴー」のシーンとそれ以外のシーンをそれぞれ異なるカメラワークで撮影し(「ランデヴー」は35ミリフィルム、それ以外のシーンはビデオカメラということらしい)、差別化を図るというのも工夫の跡が見られる。
ただ、それぞれのシーンの噛み合せが今イチしっくりこないため、作品トータルで観ると一体感というよりも、それぞれのシーンが分離してしまった印象を受けてしまい、スッキリというよりも、モヤモヤ感が残る仕上がりになってしまったのが何とも惜しいところ。言うなれば、策士策に溺れる、自己満足のマスターベーション的な作品になってしまったような、そんな印象だ。ジュリア・ロバーツやキャサリン・キーナー、ブレア・アンダーウッド、メアリー・マコーミックなどの登場人物の人物描写は非常に上手いのにね。やっぱソダーバーグって作品の出来にムラがある監督だな。
マトリックス レボリューションズ
「始まりが あるものには すべて 終わりがある」
まず最初にお断りしておくと、あたしは一連の「マトリックス」 シリーズには何の思い入れもない。まあ、それでも1作目はあのスリリングな「バウンド」 を撮ったウォシャウシキー兄弟の作品だし、どんなもんかと興味津々で観たところ、斬新な映像世界を伴ったなかなか見応えのあるSF作品だと思った。それで当然のことながら2作目も観た。でも、おバカなあたしにはこの世界観がよく分からなかった(苦笑)。そしてこの3作目にしてシリーズ完結編。一体今までの哲学的なもの、宗教観、東洋思想的なものが入り混じり、混沌とした世界観をどのように収束させるのか、あたしの興味はその一点に集中した。
しか〜し、いいのかこんなんで?そりゃ確かにこの作品を単体として観た場合、あまりにも強引な力技に思わず吹き出しながらも退屈しないで観ることはできたし、ザイオンでの戦闘シーン(あそこでのミフネ船長のエピソードは余計。この作品に妙なヒューマン・チックなエピソードなど持ち込むべきではない。すごい偽善的で嫌になった)やネオとスミスの格闘シーンなんて、明らかに日本のアニメや漫画に影響を受けているよな〜と思ったりしたけど、シリーズをトータルで考えた場合、1作目、2作目に見られた世界観はどこへやら、そういったものをすべて放っぽり出すかのようにして「愛だよ愛!」なんて言われてもね。そして、ネオはスミスという"悪"を自らに取り込むことによって世界を救い、救世主となりました、チャンチャン。って、1作目の瞠目するような内容、正直面白いとは思わなかったけど、あまりにも広がりすぎた哲学的な世界観とこれを3作目でどう落とすのか、上手く落とせるもんなら落としてみぃ、という野次馬根性的な期待感というか下世話な興味を抱いた2作目に比べ、シリーズ最後を飾るには、あまりにもスケールダウンし、妙にこじんまりとまとまってしまった尻すぼみの世界観、まさしく竜頭蛇尾、そして暴言承知で言ってしまえば、あるのは派手な映像だけで、語るべき中身は何にもない(あたしの一番嫌いなパターンだ)、何かが圧倒的に欠けている画竜点睛を欠くかのような作品と言わざるを得ない。
完結編がこういう深遠なテーマも何もない作品になってしまうと、過去2作に見られたテーマも、実は表面的な、浅薄なもので、この「マトリックス」 シリーズ自体が底の浅い作品と思わせられずにいられない。なんか、すごく勿体無いよ。というわけで、拝啓ウォシャウスキー兄弟さま、今後はこうした"ハリウッド"の垢に塗れた作品ではなく、「バウンド」 のようなインディペンデント感覚溢れる作品を撮っておくんなまし(切実)。
息子のまなざし
「人を受け入れることから、愛が生まれる。」
人間の本質が"悪"である以上、この世から犯罪がなくなることは有り得ない。では、もし、大事な家族を犯罪によって失い、法律上その罪を償った人間と犯罪被害者の家族が対峙したとき、はたして被害者の家族は人間を赦すこと、受け入れることが出来るのだろうか?この作品は、そんな非常に重いテーマを考えさせられる作品だ。
主人公オリヴィエが大工仕事を教えている職業訓練校へ、ある日、フランシスという少年が入所してくる。物語は、オリヴィエの視点から、オリヴィエとフランシスとの関係を描いていく。物語の中盤辺りでフランシスとオリヴィエの関係が明らかになるのだけど、オリヴィエはラストまでその事実をフランシスには告げない。フランシスが入所してきたときから彼の正体を知っていたオリヴィエ、だけど、それをおくびに出すこともなくフランシスに仕事を教え、付き合いを続けるオリヴィエ。彼の中にある葛藤もドラマティックには描かれない。日常このようなことについてドラマティックに纏めようとするバカなマスコミ報道に慣らされてしまっている我々には、オリヴィエの心の中が上手く伝わらないかもしれない。憎むべき相手なのにどうして?と。だけど、間違いなく彼の心の中には大切な者を失ったことによる慟哭、そして突然その憎むべき相手に出会ってしまったことによる戸惑い、自分でもどうしたらいいのか分からない複雑な感情、そういったものがない交ぜになって存在しているに違いない。そんなオリヴィエを抑制の効いた演技でオリヴィエ・グルメが好演している。
一方のフランシス。後半になって徐々に自分自身のことを語りだす。オリヴィエが自分とどういう関わりを持っているのか知らずに。そこで明らかになるのが彼の孤独感。誰かに自分を受け入れてもらいたいという切なる思い。だけど、確かに法律上"償い"をしたからといって、彼の罪が"赦された"とは思って欲しくない。できれば、一生自分の犯した罪の重大さを抱えて生きてもらいたい。少年であろうがなんだろうが、そんなことは関係ない。"盗人にも三分の理"なんてとんでもない。それが罪を犯した者の責務だと思うから。"赦す"かどうかは、自分ではなく、周りが決めることだと思うから。
物語のクライマックスは、オリヴィエの告白からラストシーンまでの間の数分間。クライマックスといっても、劇的でもなんでもない、結局最後まで徹頭徹尾抑えた演出。だけど、抑えた演出である分、かえってあのふたりが黙々と木材を運ぶラストシーンに、ふたりの距離がほんの少しだけ縮まったような、そんな印象を受けた。きっと、ふたりの中に確たる結論は出ていないにしても・・・。