まとめてポン!2004年10月編
イズ・エー
シークレット・ウィンドウ
僕はラジオ
モンスター
イズ・エー
「息子を裁くのは、父親の役目です。」
少年犯罪と被害者の家族を描いた作品としては、昨年公開された秀作「息子のまなざし」 が記憶に新しいところであるが、この作品は、さらに加害者の家族、そして加害者の家族と加害者の少年との関係という、もうひとつのテーマを突きつけている。ここでは、少年法が包含する問題、加害者少年が果たして本当に更生したのか、何故このような犯罪に手を染めたのか、ということは脇にやられているようで(実際更生してないし、犯罪の動機も明示されない)、あくまでも主眼となるのは加害者、被害者、それぞれの家族のうち、共に父親という立場にある(又はあった)ふたりの男たちの生き方、心の葛藤のようだ。
片や、内藤剛志演じる加害者の父、教師の職を辞し、ひたすら息子の更生を信じ(信じようとしていると言った方が適当か)、息子の社会復帰をサポートしようとするも、今まできちんと息子と対峙したことがないだけに、愛情の注ぎ方が分からず、どのように接していいか戸惑い、困惑する。一方の津田寛治演じる被害者の父、妻子を失い(妻の幻影というのは余計だ)、刑事という立場を超えて、少年の更生を疑い、暴走する。そこにあるのは怒りの感情。一見対照的なこのふたりが交わり、ぶつかる中で起こる第二の事件。こうなったらこうするしかないという、二人の心の内に去来するある"思い"。そこから物語はクライマックスへ向けて進んでいく。
このクライマックスにおいて提示されるのは、なんとも救いようのない結末(このシーンにおける内藤剛志の、まさに"鬼気迫る"といった表現が相応しい迫力はさすがだ)。父親だから自分の息子の不始末の落とし前は自分でつけるということなのかもしれないが、結局、犯罪というものは加害者、被害者、双方の家族にとって"痛み"しか残さないものなのではないかと、やり切れない、暗澹たる気持ちと、後味の悪さだけが残る。
シークレット・ウィンドウ
「なぜ追われる、なぜ終われない。」
原作はスティーヴン・キングの「秘密の窓、秘密の庭」。盗作疑惑に巻き込まれた作家が、徐々に追い詰められていくという展開と、結末に向けての経過、そして最後の最後に示される結末に「お!」となった、興味深い作品ではあったが、映画の方は、大枠は原作をなぞりつつも、細かな設定を変え、しかも、結末をまったく別のものに作り変えてしまっている。
それが功を奏したかどうかは別にして、この作品は、一にも二にもジョニー・デップ、彼の演じるモートのキャラというか、ジョニー・デップ自身に焦点を当てた作品になっているといっていいだろう。それほど、この作品におけるジョニー・デップの怪演ぶりが際立っている。
妻の浮気に端を発し、スランプに陥った作家、そんな彼が得体の知れないシューターなる男に盗作疑惑をかけられ、そこから坂道を転げ落ちるようにドツボにハマって追い詰められていく様、こういうややエキセントリックがかった、クセのある役をやらせたら彼は絶品というかなんというか。物語が進むにつれ、先に原作を読んでいたからオチについては分かっていただけに(というか、おそらく原作を未読であっても、ほとんどの人が途中で落ちについては気付いたと思う。さほど難しいものではないから)、あたしの視点はジョニー・デップ中心に。この作品が彼に焦点を当てた、彼中心の作品であるという視点からいくと、結末も原作にあるような小説的なものではなく(あくまでも心理サスペンスがメインという視点で捉えた場合は、間違いなく原作の方が怖いと思う)、ああいうラストにした方が映画的で収まりがいい。そういう意味で、原作よりも映画の結末の方が怖いということになる。もっとも、意地悪な言い方をすると、あの結末は普通のホラーになっちゃったという気もするけどけど(苦笑)。それでもいいの。こちらはあくまでもジョニー・デップを満喫する作品だという捉え方をしているから(笑)。でもさ〜、先の読みやすさといい、ジョニー・デップとジョン・タトゥーロ以外の俳優の存在感が希薄であったということを考えると、もし仮にジョニー・デップが主役じゃなかったら、とんでもない駄作になっていたかもしれないな(爆)。
というわけで、シューターを演じるジョン・タトゥーロ。彼も要所要所で得体の知れない不気味さをしっかりと醸し出しているところが相変わらずさすがだ。ホント、ジョニー・デップとジョン・タトゥーロの組み合わせ、なんとも"濃い"組み合わせだと思う。このキャスティングの妙が楽しめるだけでも価値のある作品だと思う。
僕はラジオ
「少し、休みませんか?しあわせを用意しています。」
ストーリーとしては、正直なところ、これといって目新しいものでもなく、優等生的な、"綺麗なお話"の一言で終わらせることも可能だと思う。しかし、これが実話を基にして作られたとなると、見え方が少し違ってくるのではないだろうか。
時代は1970年代後半のアメリカ南部。黒人で、しかも知的障害者となれば、当然差別と偏見の風潮がまだ残っていることを考えると、"ラジオ"が人々に受け入れられることがそれほど容易なことではないということは想像に難くない(だから、当然の如く理事会からの圧力、生徒の父兄からの不満などが出てくるわけで)。だけど、そんな彼を受け入れるジョーンズを始めとする周囲の人々の善意。ラジオと一緒に過ごすことで彼自身だけでなく、彼に触発されてその周りの人々も変わっていくその様子、決して中途半端な自己満足の偽善的な善意ではなく、たとえジョーンズの心の中にある種の"贖罪"の気持ちがあったとしても、真摯な気持ちでラジオと向き合う気持ちは本物だったと思うし、それ故、ラジオの処遇について喧々諤々となった最後に今までアメフトの指導がすべてだったジョーンズが下す決断には、「そうきたか〜!」と感嘆。あの言葉も痺れるね〜♪実話ベースであるだけにリアリティーと説得力を与えているような印象だ。それだけに、なんとも、優しく、渇いた心に潤いを与えてくれるような、そんな作品に仕上がっていると思う。やっぱりこういう局面での人との出会いというのは、双方に影響を及ぼすもの、そういった出会いを大切にしたい、などと、普段はひねくれた物事の見方をしているあたしも珍しく(笑)素直に受け入れてみたりして。やっぱり、たまにはこういうストレートな作品もいいものだよね、うん。
そして、リアリティーという意味では、ラストに本物の"ラジオ"こと、ジェームズ・ロバート・ケネディ氏の映像が映し出されるに至って、あらためて、この作品の持つリアルさが胸に迫り、彼の輝く表情を見つめながら、その彼の人生に思いを馳せ、思わず涙してしまった。
それから、"ラジオ"を演じるキューバ・グッティングJr.のなんとも自然体の演技、ここのところエキセントリックな役どころが多かったように記憶しているが、久しぶりに"普通の人"(笑)を演じるエド・ハリス(モミアゲが素敵(笑))の、真摯に"ラジオ"と向き合う姿など、俳優陣の演技も見応えがある。それと、時代背景に合わせたのかどうかは知らないが、70年代テイストの音楽も作品全体の雰囲気にマッチしているような、そんな気がする。
モンスター
「なぜ、愛を知ってしまったんだろう。」
2002年10月、死刑台へと消えた連続殺人犯アイリーン・ウォーノス。その彼女の人生を、あくまでも彼女の視点から描いたこの作品、とにかくアイリーンを演じたシャーリーズ・セロンの、それこそ全身全霊を傾けたかのような身体を張った体当たりの演技がとにかく凄まじい。彼女のその演技を堪能するだけでも観る価値のある作品だと思う。
誰からも愛されることなく、裏切られ続ける人生を送るアイリーン。その人生に自ら終止符を打とうとしたときに出会ったセルビー。ようやく愛する人を見つけ、彼女に自分の居場所を見出し、最後の生きる一縷の望みを賭け、彼女とはいつも一緒にいたいと願い、自分のすべてを捧げて生きようとするも、ひょんなことから犯してしまった殺人をきっかけとして、さらに転がるようにアイリーンの人生が行き場を失い、追い込まれていく。
人から愛されないということは、こうも辛いことなのか、そして、愛する相手を見つけても、それが報われなかったときに感じる絶望感。それらに胸が痛む。モチロン、この作品は、あくまでもアイリーンの視点から描かれている作品であり、これは彼女にとっての真実であり、その彼女の、痛く哀しい人生と生き様すべてについて共感できるとは思わないし、これらをすべて家庭環境や社会環境のせいにもしたくない。
しかし、その壮絶な彼女の人生と、最後に待ち受ける救いようのない結末に、どうしようもないやり切れない感情が残るのもまた事実だ。最後にセルビーにまで結局は裏切られるアイリーンの心情を慮るに、信じて裏切られ、それでも信じられる人を求めようとする人間の哀しい性を感じずにはいられない。
また、前述したシャーリーズ・セロンの身体を張った演技と同様に、セルビーを演じるクリスティーナ・リッチの、無意識なのかもしれないけれど、実は非常に利己的で、残酷なキャラクターも相俟って、作品の緊張感を高めていると思う。