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まとめてポン!2005年1月編

カンフーハッスル
酔画仙
スーパーサイズ・ミー
ネバーランド
巴里の恋愛協奏曲

ライフ・イズ・コメディ!











カンフーハッスル

 「ありえねー。」
 チャウ・シンチー監督の前作「少林サッカー」 が、サッカーとカンフーの組み合わせという、それこそ"ありえない"理屈抜きに楽しめる超娯楽大作で、そのあまりのおバカ加減にお腹がよじれるほど笑い転げ、笑いすぎてお腹が痛くなった(これ実話)。
 で、チャウ・シンチー監督の新作であるこの作品も、前作以上に"ありえない"モード全開の、カンフーの達人たちの妙技が楽しめる、これまたCGとワイヤー・アクションが全編に漲るチャウ・シンチー監督のカンフーに対する愛情溢れる超娯楽大作に仕上がっている。
 で、まず驚かされたのが、主演のチャウ・シンチー演じるサムが、善人ではなく、悪を目指して上海を仕切っている斧頭会へ入りたいと願うチンピラだということ。彼がカンフーの達人ではないのね。しかも、怪しい本を売りつけられて、それでカンフーを学んでたり(笑)、決して強くないのが哀しい(苦笑)。唯一の特技っていうのが錠外しっていうのがなんともトホホ(笑)。あ、でも驚異の治癒力っていうのもあったな。その一方で、サムがいちゃもんを付けた豚小屋砦の住民が、市井の人に身をやつしたカンフーの達人だというのがまたスゴイ。それ以上にスゴイのがサムにパンチを食らわせた畑仕事に精を出すオバチャンだったりして(笑)。そうなんだよね〜、この作品っておバカ全開というよりも、こうした小ネタで笑わせてくれるというのが小粋だったりする。
 確かにそういったおバカ加減、笑いを期待していったというのはあるんだけど、それ以上にカンフーの達人たちによるカンフーの妙技を思う存分味わえたおかげで、笑いを期待していったにもかかわらず、結果としてかなりの満足感を味わうことが出来た。要するに、笑いはこの作品のエッセンスに過ぎず、単なるギャグ映画というよりも、正統カンフー映画にギャグをまぶしてみましたって感じ。それにしてもこのカンフーの達人たちの技は、観てて惚れ惚れする。ほとんど「ドラゴンボール」 の天下一武道会の世界だな、こりゃ(笑)。特に豚小屋砦の大家夫婦の太極拳に獅子の咆哮、彼らのキャラも相俟って、ガツンとくる。あと、最強のカンフーの達人にして精神を病んじゃった"笑う殺し屋"火雲邪神。この人もその風貌からは計り知れない恐るべし、って感じだもん。なんか、チャウ・シンチーが主役というよりも、これらのカンフーの達人たちが主役って感じの展開でした(しかも、彼らって、香港映画のスターな人たちなんだね)。
 とはいえ、チャウ・シンチーが主役だということになっているので、チンピラ・サムの活躍の場は最後に用意されてると思ったらそのとおりで、火雲邪神の一撃で全身の脈が開いて彼の潜在的な真の能力が開花するっていうのがこれまた可笑しい。彼の白の上着と黒のパンツのいでたちがなんとも凛々しくカッコいい。そして彼が最後に繰り出す如来神掌。痺れるね〜。
 それともうひとつ、カンフーの妙技と併せてサムの幼少時の思い出。屋台のアイス売りの少女フォンとサムの関係。一見ストーリーの本筋とはかけ離れているようにも思えるけど、サムの幼少時の怪しい(笑)カンフーを学び始めた頃のエピソードと現在をリンクさせるということで、決して無駄なエピソードだったとは思わない。まあ、ラストのキャンディーの話は出来すぎという気もするけど(笑)。とはいえ、ラストのあのシーンに思わずホロリとなっている自分がいたりするのだけれど(笑)。
 兎にも角にもまずはアクション。ここまで徹底的にやってくれると爽快、そして痛快。こうした一大エンターテインメント作品は、やはり四の五の理屈をこねてないで素直に楽しむのが正解だと、心から思ったのでした。

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酔画仙

 「酔ひて華やぐ神の筆」
 世の中は"韓流ブーム"らしいけど、そしたらこの作品にもっとスポットが当たってもいいんじゃないの?カンヌで監督賞を受賞し、韓国映画界でもソン・ガンホ、ソル・ギョングと並んで"別格"とされるチェ・ミンシクが主演し、韓国の国民的俳優であるアン・ソンギが脇を固め、「ラブストーリー」「永遠の片想い」 のソン・イェジンの映画初出演作品だということでも分かるとおり話題性十分。悪いけど、チェ・ミンシクやアン・ソンギの前では"四天王"だかなんだか知らないが、そういう連中などまだまだケツの青い"ガキ"同然。にもかかわらず、大々的な話題にもならずにひっそりと公開されて、岩波ホールでの上映の割には比較的上映期間も短い感じ。もっとも、結局現在の日本における"韓流ブーム"など、麻疹みたいな一時的な、所詮は底の浅いものだと思っているし、こうした芸術的な作品に、流行りモノに飛びついてる"だけ"のオバハン連中に大挙して来られても迷惑なだけだから(爆)、心から韓国映画を愛している人に観てもらえればそれでいいと思うけどね。
 な〜んて、のっけから「テメェ喧嘩売ってんのか!?コラ!」と言われそうな暴言かましてスイマセンなんだけど(汗)、19世紀の朝鮮時代末期に筆一本で宮廷画家にまでのぼりつめ、"朝鮮時代三大画家"と称される実在の画家、チャン・スンオプの人生、そして時代の流れに翻弄され、苦悩するその姿を、チェ・ミンシクが抑制の効いた演技ながらも存在感たっぷりに演じている。彼にはやはりこういう役が似合うね。
 それにしても、歴史上も謎に包まれている部分があると言われているこのチャン・スンオプという画家の生き様、一度筆を握れば腕は超一流、だけど"酒と女なしには絵を描けない"と言われたその放蕩な生き様、だけど、せっかく描き上げた絵も結局は人々の名誉、虚栄心を満たすために利用され、ジレンマに陥り苦悩し、だけど酒代のためにはやっぱり絵を描かなきゃならないし、そして悩みながらまた酒と女に溺れていく様、そして、時代の流れに翻弄され、逃亡と放浪を繰り返し、やがて同じく時代の流れに飲み込まれ、隠遁生活を送っていた彼の師であるキムとの再会(泣き崩れるスンオプの姿が印象的だ)、最後に姿を消し、仙人になったとも言われる謎に包まれたままのラスト、天才にありがちな、世間の仕組みに適応せず、傍から見るとメチャクチャな人生。だけど、彼に関する残された少ない記録を元にその人生を再構築するとこうなるのかと、なにやら感慨深いものがある。
 それから、この作品で使われている美術品の類は、どうやら本物を使用しているらしく、そうしたものが居並ぶ映像的な美しさもこの作品のひとつの見所であろう。もっとも、あたしには美術品を見る目が欠如しているので、さながら"豚に真珠"という話も(冷汗)。

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スーパーサイズ・ミー

 「ファーストフードを1日3食1ヶ月間食べ続けると、人間どうなる?」
 世間では"暴れ食い"、いくら食べても太らない体質、として知られているあたしだけど、一応このスリムな体型を維持するために、1日3食規則正しく食事をとる、間食はしない(当然甘いものも食べない)、夜9時以降は極力食べないようにする、酒、タバコの類は一切やらない(酒は21で完全に止めたし、タバコはあの煙と臭いが大嫌い)という心がけというか、食生活を送っているというのが実情だったりする。ま、だからといって、あたしの辞書には"腹八分目"という概念は存在しないとばかりにいつもお腹一杯になるまで食ってしまうというのもどうかとは思うが(笑)。モチロン、ライヴの前の腹ごしらえなどでとりあへずファーストフードのお世話になったり、今日は飯作るのメンドーだな〜ってときにはデリバリーのピザのお世話になることもしばしばだけど、決して習慣的にお世話になるようなことはしていない。これはきっと、ガキの頃からそういうものは"毒"みたいな教育を受けて育ってきたからなんだろうな〜。というか、ファーストフードに限らずなんでもそれ"だけ"を食べてれば栄養のバランスが崩れるということを教え込まれていたというのが正解か。とすると、この作品の題材とされているファーストフードを習慣的に食べ続ければどういうことになるか、などというのは言われなくても当然って感じで思っていたのもまた事実だ。
 なもので、結果は火を見るよりも明らかだとは思ったものの、実際にモーン・スパーロック監督自らが身体を張ってそれを実証するといういわば"人体実験"に対し、はっきりいって野次馬根性丸出しの気分での鑑賞と相成った。
 その"人体実験"の中身はというと、@マックのメニューしかオーダーしてはいけない、A"スーパーサイズ"を勧められたら断らない、B店内すべてのメニューを必ず一度は食べる、C朝・昼・夜、3食すべて残さず食べなくてはならない、というもの。初日はとりあへず滑り出し好調だったものの(前の晩の"最後の晩餐"とばかりの有機野菜メインの食事がなんとも対照的。しかも、監督のガールフレンドがベジタリアンだというのがなんとも皮肉だ。こんなの見せられる彼女がお気の毒って感じだね、こりゃ)、2日目には早くも気分悪くてゲ○吐いてるし、ドンドン体調も優れなくなり、体重は増えるわ、一日の摂取カロリー量はオーバーするわ、様々な数値も異常値を示すわ、オマケに勃つものも勃たなくなるにいたってはもう末期的。それにしても、この"スーパーサイズ"メニューの大きさは尋常じゃない。何でもかんでも大きけりゃいいってもんじゃないと思うんだけど、そこがアメリカなんだろうな。
 そんな"人体実験"に、アメリカの総人口の60%が肥満だとか、肥満の多い都市はどこか、とか、アメリカの学校給食の実情などの事例を挟み込みながら検証していくその手法は確かに興味深いものがある。"食"に対する意識の低い、習慣的にファーストフードに依存している人たちがこの作品を観れば、ある程度の衝撃を受けるのだろうなとも思う。しかし、アメリカではこういう事例があります、試しにファーストフードを食べ続けてみたら、こういう結果になりました、それを元に戻すにはこれくらいかかりました、てな感じで、事実関係を並べただけで、結局はそこまでなんだよね。そこから更に踏み込んだ監督自身の思想、今後どうしていくべきなのか、といったことが伝わってこない。映画って、作り手の"想い"が籠められていないと存在意義がないと思っているあたしにとってはそこが物足りない。もっとも、そもそものスタート地点が、肥満になったのはハンバーガーのせいだとファーストフード店を訴えた若い女性のニュースを見て、いっちょやってみようか、ということだったわけで、元々監督自身が危機感を抱いていて、それを映画にしたのではないということ。そこが一連のマイケル・ムーア監督作品との違いであり、それ故こうしたものに対する危機感や警鐘というものを感じられなかったというのも正直なところだ。まあ、監督自身も最後に言っているように、結局これってあくまでも個人の問題であるという部分があるからなんだろうけどね。ただし、人間が生きていいく上で必要不可欠な"食"に対する意識はもう少し高めるべきだと思うし、そういう意味でも"食育"の必要性を改めて感じた。

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ネバーランド

 「ピーター、そこは夢が叶うな場所なんだ。信じれば、必ず行ける。」
 先ごろ公式の続編の執筆がアナウンスされた「ピーター・パン」。その「ピーター・パン」の原作者である劇作家ジェームズ・バリが、「ピーター・パン」を生み出すまでのその誕生の物語を、派手さはない抑えた演出で、しかし、観る者の心に深く染み渡るタッチで描きあげた素晴らしい作品だ。
 舞台は1903年のロンドン。釣竿をもって公演に出かけるバリの姿にニヤリとし、その公園でのシルヴィアとその4人の子供たちとの出会いのシーンもなんとも微笑ましい。ベンチの下にもぐりこんで、「ぼくは捕らえられているの。」という言葉を否定することもなく、一緒にその世界に入り込むバリ。その心の持ちようが嬉しい。そして、彼らのキラキラ煌くような微笑ましい交流(公園での凧揚げのシーンでは、微笑ましさを覚えると同時に、何故だかウルウルきてしまった)。間違いなくかけがえのないもの。そこに挿入される犬が熊になってのダンスシーンや海賊船の甲板のシーン、西部劇シーンなどのイマジネーションの世界。こうやってイマジネーションの翼を広げることで、世界は広がっていくのだと思わずにはいられない。それと同時に4人の子供のうち、父親を失うという辛い現実に打ちのめされ、唯一心を閉ざしていたシルヴィアの三男のピーターも次第に心を開いていく様が、なんとも自然に描かれていく。
 世間では"ピーター・パン症候群"なる言葉もあるように、時にはマイナスのイメージも持つ"ピーター・パン"という言葉ではあるが、作者であるジェームズ・バリもそういう"大人になりきれない大人"なのかというと、この作品で描かれるジェームズ・バリの人間像は、あくまでも"少年のような心"を持った"大人"として描かれている(この二者は、似て非なるものであると思っている。前者あくまでも精神的に"子供"であるのに対し、後者はあくまでも"大人"であるということが前提である)。それと同時に、この作品では、決して"大人"になることを否定していない。それは、バリ自身が自らの母親との思い出を語るシーンでの「このとき僕は大人になった。」というセリフや、シルヴィアの健康を案じる彼女の息子に対し、バリが「君はこの瞬間に大人になったんだよ。」と語りかけるシーン(これは名シーンだと思う)からも明らかである。つまり、仮に"大人"になったとしても、前述したとおり、イマジネーションの翼を広げることで、世界は広がっていくのだということをあらためて伝えようとしているのではないか、そんな気がする。
 もっとも、バリのキャラクターという点では、未亡人であるシルヴィアとの交流がいらぬ誤解を生み、妻との仲がギクシャクしたりして、仮にバリとシルヴィアとの間にそのような感情がなくとも、やっぱり世間的に見れば妙な疑いを招くのは必然だろうし、その辺に対する認識のなさという意味で、彼の常識は、やや世間の常識とはかけ離れたものであるというのも間違いないところではあるが。その一方で、病魔に侵されたシルヴィア(この際、シルヴィアを演じるケイト・ウィンスレットが、健康的過ぎて病人には見えない、というツッコミは置いておく(笑))がなんともないように振舞っていても、「そうやって病気ではないふりをしても、現実は変えられないんだよ。」と言うセリフに、ある種の諦念のような分別をも持ち合わせているようにも思える。
 このバリのセリフに象徴されるように、確かに想像力には現実を変える力はないのかもしれない。しかし、その現実に影響を与えることはできるのではないか。それが病床に伏せるシルヴィアのために彼女の自宅で「ピーター・パン」を出張上演したときの、小さくなる灯りを消さないために、妖精を信じるみんなの力(拍手)が必要なんだとピーター・パン(余談ながら、このピーター・パンを演じていたのが、「ダブリン上等!」 に出演していたケリー・マクドナルドだったということを、「ダブリン上等!」 を観て知った。このときの彼女が思い切りあたしのタイプであったものの、この作品を観たときにはそんなことは露知らず、こんなことならもっとジックリとピーター・パンにも注目しておけば良かったと後悔してみたりして(笑))が呼びかけたときに、真っ先に拍手をしたのが、現実世界の象徴とも言うべきシルヴィアの母親だったということが見事に証明しているのではないか。「ピーター・パン」が舞台で初演されたシーン(孤児院の子供たちを招待するというのが粋だ。しかも、この子供たちを大人たちの間に座らせることにより、子どもたちの喜びが大人たちにも伝染して共鳴するというアイディアがこれまたお見事)で、既にかなり涙腺が緩んでいたのだけど、このシーンと同時(そしてそれと同時に現れるネバーランド!)に涙がとめどなく溢れてきた。
 そして、シルヴィアを失い、その葬儀で思わずバリを罵ってしまったピーターとバリがベンチで語り合うラストシーン、これがまた泣かせる。だけど、信じることで、きっとピーターはシルヴィアといつでも会える、そう思えてならない。

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巴里の恋愛協奏曲

 「誰もが誰かに恋してる」
 この作品って、"ミュージカル"ではなくて"オペレッタ"だそうな。ミュージカルとの一番大きな違いはミュージカルがマイクを使うのに対して、オペレッタは原則として生の声で歌うらしい(ということが、この作品のチラシに書いてありました)。
 そんなパリでロングラン・ヒットを記録したオペレッタを映画化したこの作品、オープニングの歌いだしのシーンから掴みは上々といった感じで、実業家の夫ジョルジュと理想的な結婚生活を送るジルベルト、しかし、彼女にはジョルジュにも言えない秘密があった。その秘密とは彼女がジョルジュとの結婚前にアメリカに居住していたときにエリックというアメリカ人との離婚歴があり、"女は初めての男のもの"という持論を崩さないジョルジュには絶対に知られてはならないもの。しかし、ジョルジュが仕事でエリックと知り合い親しくなり、彼らの家へ招かれ、ジルベルトはパニック寸前、その一方でジルベルトに想いを寄せる青年シャルレ、そのシャルレに想いを寄せるユゲットも加わっての恋のドタバタが歌を交えながら繰り広げられる。
 ストーリーとしては定番というか、非常に分かりやすく、オペレッタのラストはハッピーエンドで終わるというお約束事があるらしく、そういった意味でも大団円のラストも含めて安心して観ていることが出来る類の作品であろう。
 しかし、そういう作品であるにも拘らず、あたしは正直この作品を心から楽しむことが出来なかった。それは何故なのか考えてみたんだけど、要するに登場するキャラクター個々の魅力が全然立っていないということなのだ。例えば主演のサビーヌ・アゼマ演じるジルベルト。夫から愛され、複数の男から求愛される。しかし、彼女には年齢云々ということではなく、どうも艶と輝きが感じられず(どちらかというと枯れた感じ)、どうして彼女がこんなにも愛されるのか、理解に苦しむ。物語の一番の中心人物である彼女に魅力が感じられなければ、やはり楽しめないでしょ。それからジャリル・エスペール演じる彼女に想いを寄せるシャルレ。お前は嶋田久作か!?と思わずツッコミを入れたくなってしまうアゴ男(爆)。それになんかギトギトとした嫌らしさを感じてしまったのだけど。こういう男にオドレイちゃん演じるユゲットが惚れること自体が許せん(爆)。お目当てのオドレイ・トトゥ演じるユゲットにしても、確かにカワイイけど(かなり贔屓目)小悪魔的な魅力とまではいかない様な気もするし、わざわざ彼女が演じる必要もないのではなかろうか。それと、どうもここ日本ではオドレイ・トトゥが主演、みたいな宣伝がなされていて、それって違うんじゃないのかなと。
 そうしたキャラクターの魅力が感じられなかったために前述した大団円のハッピーエンドにしても、どうもスッキリとした気分になれなかったのが非常に残念だ。映画に大切なのはまずは脚本だけど、やっぱりキャラクターの魅力というのも大切な要素のひとつなんだなと。まあ、アパルトマンの管理人フォワン夫人を演じるダリー・コール(この人男性だったのね)は唯一クスリとできるキャラクターだったけど。あと、ジルベルトの妹アルレットを演じたイザベル・ナンティってどこかで見た顔だと思ったら、「アメリ」 に出てた女優さんでした。

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ライフ・イズ・コメディ!

 「人生は、最高にドラマチック」
 まず始めにお断りしておくが、あたしはピーター・セラーズの出演作を1本もまともに観たことがない(後から彼の出演作を調べてみたら、どうやらTV放映された「名探偵登場」 は観た記憶がうっすらと残っているが、いずれにしてもまだ子供の頃だっただけに記憶は曖昧)。当然、「博士の異常な愛情」 やコーエン兄弟の「レディ・キラーズ」 のオリジナルである「マダムと泥棒」 に彼が出演していることすら知らなかった(恥)。余談ながら、1986年発表のOZZY OSBOURNEの"Shot In The Dark"の当時の邦題"暗闇でドッキリ"って、きっと"ピンク・パンサー"シリーズの第2作の邦題をそのまま流用したんだろうな〜。原題もほぼ同じだし。当時はなんともトホホな邦題だと思ったが(苦笑)、実は日本のレコード会社の深遠なる計算が働いていたりして。って、そもそも「A SHOT IN THE DARK」 をこのような邦題にしちゃった当時の日本の映画配給会社のセンスに問題があったというほうが正しいのか?(笑)
 それはさておき、そういうわけなので(どういうわけぢゃ?)、あたしはピーター・セラーズという役者に対しては何の思い入れもない。それ故、思い入れたっぷりのファンのような観方ではなく、もう少し距離を置いて、ひとりの役者の人生における光と影を、冷静な気持ちで観ることができると思っていた。
 で、結論。確かに冷静な気持ちで観ることができたのは間違いない。まずジェフリー・ラッシュの幾つもの顔を使い分けるその演技力に感嘆。モチロン、ピーター・セラーズ出演作を知らないから、実際の彼と比べてどうだとか、似てるとか似てないとか言うことはできない。だけど、子供のようで癇癪持ちで(あそこまで自分の子供にキレるか普通)繊細で、女性との恋の遍歴を重ね、役作りには妥協を許さないで常にその役になりきるかのような役者魂を持ち、その一方で、そうやって役になりきる、特定のイメージに縛られないということは、"空っぽの器"という言葉(非常に言い得て妙だ)に象徴されるように、アイデンティティーの喪失とも言うべき気持ちに苦しむかのようなその姿、世間で求められているイメージと自分が本当にやりたいことの狭間で悶々とする姿、さらには内なる孤独感を抱えて生きているようなその姿、ずっと企画を温めていた「チャンス」 にかけるその気持ち(今までの諸々の資料を燃やすシーンが印象的だ)、本人を知らないにもかかわらず、本当にピーター・セラーズという人は、こういう人だったんじゃないかと思わずにはいられない。もしあたしがピーター・セラーズの大ファンで、彼に対して思い入れたっぷりであったならば、もしかしたら、思い切り感情移入をしていたかもしれない。それが良いことなのか悪いことなのかは置いておくにしても、なんだか勿体無いことをしたのかもしれないな〜という思いも残る。とはいえ、普段映画を鑑賞する際にはそのキャラクターに感情移入できるかどうかということが、その映画を楽しむことができるかどうかのひとつのポイントになっているあたしとしては、感情移入というものがなかったにもかかわらず、決して退屈することなく最後まで楽しむことができた、興味深く観ることができた、という点に、この作品の質の高さが窺えると言っていいだろう。
 それともうひとつ。この作品のあたしのお目当てだった、ピーターの最初の妻アンを演じたエミリー・ワトソン。ピーターと別れてもなお、もうひとりの母親のように彼の側にいて、実は彼の精神的な支柱であったと思わせられる、決して出しゃばらないけどしっかりと観る者に印象付けるその存在感もお見事だ。ぢつは彼女については「パンチドランク・ラブ」 でのまったく魅力の感じられない"単なるオバハン"(爆)キャラに、一気にテンション下がっていたのだけれど、名誉挽回とばかりに存在感を示してくれたのがとても嬉しかった。あの"オバハン"キャラ(しつこい)に、マジで一時はどうなることかと思ったもん(苦笑)。やっぱり上手い役者だということを再認識できたのも収穫のひとつであった。

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