ライフ・オブ・デビッド・ゲイル

 「あなたはこの結末に納得できますか・・・」
 大学教授であるデビッド・ゲイルは、同僚の女性をレイプした上、残忍な手口で殺した罪で死刑判決を受けていた。彼は残りの3日間で、初めて単独インタビューに応じることになる。インタビュアーには、人気誌の女性記者、ビッツィーが指名される。1日目、2日目と彼の話を聞くうちに、ビッツィーは彼が事件の真犯人ではないことを確信する。しかし、その裏付けの為に奔走するうちに更に幾つもの謎にぶつかることになる。そして、次第に明らかになる事実に、事件の全貌は、予想もつかない方向へと進んでいく・・・。
 アラン・パーカー監督は死刑制度反対のスタンスを取っている人だという。それでは、これは死刑制度反対のみの論調の作品なのかというと、必ずしもそうではないような気がする。あくまでもこのような"死刑制度"という題材を投げかけて、その上で観客それぞれがどのように考えるか、そしてそのそれぞれの考え方に基づいて大いに議論してもらいたい、そんな意図が込められているのではなかろうか、そんな気がした。それ故に、この作品を観終わって、久しぶりに誰かと語り合いたくなったもの。
 さて、あたし自身は"死刑制度"に対してどのように考えるか。昔司法の道を志した者として、これは避けては通ることのできないテーマであり、大学のサークルの合宿でこれをテーマにしてディベートをしたことを思い出した。現行の日本の法制度では私的制裁が禁じられている("人"が"人"を裁くという考え方にはどうしても抵抗がある。とはいえ、もしあたし自身がその立場に立たされたとき、どのような行動を取ることになるか予測が付かないけど)以上、その犯した罪が"死"に値するものであれば、やはり法の名の下に、自身の"死"をもって償うしかないのではないか(その一方で、例えば有期、無期の懲役ではなく終身刑や懲役500年みたいな形で一生刑務所に拘束して、死ぬまで自身の犯した"罪"と対峙させるというのもありだと考える)。何をもって"死"に値するかというのは議論の分かれるところかもしれないが。ただし、法が裁くのはあくまでも犯した"罪"であり、罪を犯した"人"ではないということ(この作品で死刑制度反対論者が言う冤罪の可能性があるから死刑反対というのは、"罪"ではなく"人"を裁くという観点に立脚しているような気がしてならない。これは論点が違うと思う)。ここは混同しないようにしたい。と、建前論ではそうなるだろうが、あたしも含めて日本人というのはどうしても"感情"に流される傾向のある人種であり、どうしても割り切りができない部分が大きいのではなかろうか。結局、あたしが司法の道を諦めたのだって、モチロン、既に世俗の煩悩に塗れていたから司法試験の勉強をするのが嫌になっちゃったっていうのが一番大きいんだけど(汗爆)、法を扱う職業で、ある意味割り切りができない自分には到底この仕事を全うすることができないと感じたからだし。そう考えちゃうと、今後導入が検討されている裁判員制度も、これが一体どういう制度になるのか、国民に対してきちんと知らされていないような気がするし(つうか、あたしはよく知らない)、もしアメリカの陪審員制度のような制度であった場合、"感情"に流されかねない日本人にこの制度が馴染むのかも分からないし、だから、国主導で導入されようとしているように見えるこの制度には一抹の不安もある。
 とまあ、死刑制度について前面に押し出されている気がしなくもないこの作品だけど、実はサスペンスとしても一級品なのだ。観ながら色々と考えたのは事実だけど、それ以上にサスペンス作品として楽しんでいたもん。オープニングでビッツィーが走り、我々観客は何故彼女が走るのか?という疑問を抱きつつ、そこから時間が過去に遡り、死刑直前のデビッド・ゲイルとのインタビューとそれに対する裏付けを通じて事件の真相が徐々に明らかにされていく。その真相に至るまでの過程がテンポよく描かれ、頭の中で推理を組み立てながら、完全に物語の中に引き込まれていく。推理という点から言えば、(ネタバレ)→「弁護士のヘマで終身刑で行けそうなところが死刑になった。」というところで、これはきっと、この事件にゲイル自身が何らかの形で絡んでいて、自ら極刑を望んでいるのではないか?と感じ←(ここまで)、おおよその結末の予測は付いた。あと、あのケヴィン・スペイシーがゲイルを演じるのだから、絶対何か捻りがあるに違いないという先入観ね(これは、役者のイメージとしては痛し痒しだな)。だけど、だからといって、提示された結末に「な〜んだ。やっぱりそうじゃん。」と落胆したかというと決してそんなことはなく、感じたのは逆に「おお〜、やっぱりそうきたか〜!」という驚嘆の念。なんたって、(ネタバレ)→ラストで自殺したコンスタンスの遺体の処理をしてビデオカメラを覗き込むゲイルを演じるケヴィン・スペイシーの視線には背筋がゾクリとしたもんな←(ここまで)。結局脚本が非常に上手くできているからなんだろう。
 また、この優れた脚本だけでなく、主要登場人物を演じる俳優たちの優れた演技もこの作品を優れたものにするのに一役買っている。ゲイルを演じるケヴィン・スペイシーは、もう言うことない。大学教授として講義をする様、酔った挙句に女子学生の誘いに乗って思わずfuckしちゃう様(決してセクシーではないけれど(爆))、そのことがきっかけで職を失い、酔いどれ落ちぶれ街を彷徨う様、刑務所での妙に悟りを開いたかのような表情と瞳、どれも文句なし。また、ビッツィーを演じるケイト・ウィンスレット、彼女についても最近見直したというのは各所で書いているんだけど、今回も事件の真相に辿り着き、あそこで慟哭するシーンではいつの間にか彼女に感情移入して涙ポロリ。やっぱいい役者やね〜。また、コンスタンスを演じるローラ・リニーの痛々しさ。結局この事件の発端は、彼女の抱える事情だったと言えるわけで。
 それから、この作品においてアラン・パーカー監督は、(ネタバレ)→自らの"死"までも死刑賛成論者と死刑反対論者の争いという"パワー・ゲーム"に利用しようとするアメリカ人、そしてあたかも罪を犯した"人"を裁こうとし、状況が変わると一転、今度はゲイルを"殉教者"と持ち上げようとするマスコミ←(ここまで)に対する皮肉も込めて描こうとしていると感じたんだけど、それは穿ち過ぎか?

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